家康は信康を子育ての「失敗例」として断じていた
史記から読む徳川家康㉕
大浜は織田家の領土と接した徳川領の西の境目だったから、信長に対して態度を明示した行動だったとも受け取れる。
同月5日、家康は大浜に隣接した西尾城(愛知県西尾市)に軍勢を派遣(『家忠日記』)。信康は武装した軍勢により監視下に置かれたことになる。その背景には、信康に味方する勢力が岡崎城に巣食っており、彼らに対する牽制という意味合いもあったようだ。
同月7日、家康は岡崎城に入城。翌8日には織田家家臣の堀秀政(ほりひでまさ)に書状を送り、「信康を岡崎から追放した」と報告している(「堀久太郎宛書状」)。翌9日、家康の命により、信康は大浜から遠江国(とおとうみのくに)堀江城(静岡県浜松市)に移送。岡崎城や三河国(現在の愛知県東部)の信康方の勢力と切り離す狙いがあったものと見られる。
翌10日には、岡崎城に西三河の家臣たちを集めて、信康と内々に連絡をしないよう起請文を書かせた。同月13日に家康は浜松城に帰城している(『家忠日記』)。
同月20日には、武田勝頼が駿河(現在の静岡県東部)に出陣するという、徳川家にとって緊迫する情勢もあったようだ(『武田勝頼書状』)。
そして同月29日、築山殿は遠江国富塚(静岡県浜松市)で殺害された(『松平記』)。なぜ富塚に移送されたのか、どんな罪で裁かれたのか、現在のところ、明らかになっていない。なお、移送中に輿の中で自害したとする説もある(『石川正西聞見集』)。
築山殿は殺害されたが、この頃まで信康は処刑されることなく、幽閉という状態だった。どうやら一時的な勘当状態であると信康が考えていた節もある(『当代記』)。
同年9月5日、家康と相模(現在の神奈川県)の北条氏政(ほうじょううじまさ)との間で同盟が締結(『家忠日記』)。
同月15日、信康は二俣城(ふたまたじょう/静岡県浜松市)の近隣にある清滝寺で自害している。これは家康が命じたものとされている。追放から一ヶ月以上も経って自害を命じるのは不可解で、なぜこれほどの期間が空いたのか、理由はよく分かっていない。
なお、信康事件から30年以上を経た1612(慶長17)年2月26日に、家康は息子の秀忠(ひでただ)の妻であるお江与(えよ)の方に宛てて書状を書いている。そこには子育ての失敗例として信康を挙げており、それによれば、信康は生来病弱だったため気ままに育てていたら、成人後に親の言うことを聞かない人間になった、と述べられている。
この書状の真偽は研究者によって判断が分かれているが、いずれにせよ、信長の命によって家康が泣く泣く信康を殺したとする説は現在、ほとんど採られなくなっている。
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